あるカーデザイナーがいました。彼のデザインしたF1マシンは16戦中15戦という圧倒的な戦績を残しましたが、それを機にF1マシンの設計から引退。かねてより構想を温めていた「20世紀最後の工業製品として、10年後、20年後にも見劣りしない究極の自動車」をコンセプトに据えたクルマをデザインし、完成させます。
そのカーデザイナーの名前はゴードン・マレー。ブラバムでのファンカーや表面冷却、カーボン素材のブレーキディスクやウイングなどへの使用、ハイドロニューマチックサスペンションの搭載、レース中の再給油を一般的にしてしまうなど、F1界のイノベーターとして知られています。
彼が作り上げた空前絶後のスーパーカーが、マクラーレン・F1。生産を終えてから既に20年以上が経過していますが、このクルマに対する賞賛は鳴り止むことなく、世界中のオークションで最高値を更新し続けています。マクラーレン・F1は多くのメディアで「革命を起こした」と言われていますが、このクルマはスーパーカーの世界に何をもたらし、そして何を終わらせたのでしょうか。色褪せるどころか、ますます輝きを増しているマクラーレン・F1の魅力に、今改めて迫ります。
あくまでロードカーとして設計
誤解されがちなことですが、冒頭に記載したコンセプト通り、マクラーレン・F1はレースでの使用を考慮して設計されたクルマではありません。後のレースでの華々しい活躍は、あくまでクルマの素性の良さがあってこそ。ゴードン・マレー自身は、このクルマをレースで使うこと自体、難色を示していました。完璧主義者で知られるゴードンですから、「最初からレースへの参戦が目的であったなら、このデザインにはしなかった」ということなのでしょう。
とはいえ結局は、レースに参加したいというオーナー達の声に応えて、レース仕様車の「マクラーレン・F1 GTR」の開発をゴードン自らが行うようになるのですが…。
マクラーレン・F1は究極のロードカーとして設計されましたが、ゴードン・マレー自身が望むものは最高のクオリティで用意され、一方で不要とされるものは容赦なく切り捨てられているのが特徴です。
マクラーレン・F1について、「快適性はかなり犠牲になっている」「軽量化のためにあらゆるパワーアシストや電子デバイスが排除されている」という評論を目にすることがありますが、これは正しくありません。なぜなら、190cmの長身のドライバーが座ってもベストなドライビングポジションが取れ、かつ頭上の空間にも余裕があるF1を「快適性を犠牲にした」と言えるでしょうか。
強力なエアコンは30秒で室内の空気を入れ替えることができ、厳しい重量制限をクリアしたケンウッド製の10連CDチェンジャーまで収めているのですから、「軽量化のためにあらゆる電子デバイスを排除」したとは言えないでしょう。ゴードンが必要だと考えたから、それはそこに存在しているのです。
何が選ばれ、何が切り捨てられたのか
常識的に考えて、装備されていて当然と思われるものが装備されていない、というのはある意味で正しいです。新車価格が約1億円で販売されていたクルマにも関わらず、パワーステアリング、ブレーキサーボ、ABS、さらにエアバッグなどの安全装備は一切備わりません。ドライビングシートはオーナー自身の体に合わせて作られるカーボンコンポジット製のフルバケットタイプですが、リクライニング機構は備わっておらず、シートのスライドは手動で行います。エンジンの最高出力は627ps、最大トルクは650Nmに達し、後輪のみを駆動するにも関わらず、トラクションコントロールは装備されていないのです!
一方で、センターに配置されたドライビングシートの左右には、さらに2人が乗れるパッセンジャーシートが用意され、バタフライドアの後方には実用的なサイズのトランクスペースが存在します。先述した通り、エアコン、オーディオが備わるほか、パワーウインドウ、中央集中ロックも装備。地上最低高も「近所のショッピングセンターの駐車場の段差をクリアできる」高さが確保されています。荷物を搭載できるスペースはかなり充実しており、その気になれば毎日の買い物にも使用できる実用性と快適性が確保されているのは特筆すべき点です。
また、最高速度391km/hを誇る超高性能車でありながら、乗り心地は決して硬すぎず、街中の運転からワインディングロード、ロングツーリングまでこなす高い快適性を、電子制御なしの前後ダブルウィッシュボーン式サスペンションで実現しています。
この一見ちぐはぐなバランス感覚は、マクラーレン・F1の大きな特徴と言えるでしょう。このバランス感覚を理解するためには、F1のもっと根幹の部分、つまり基本的なパッケージングを知る必要があります。
独創的なパッケージング
ドライバーを中心に見ていきましょう。ドライバーを車体の中心に低く、かつできるだけ前に配置します。ドライバーをセンターに置いたことで、ペダルのレイアウトが理想的な配置が可能となり、タイヤハウスの干渉などに悩まされることもなくなりました。マクラーレン・F1のペダルとステアリングの位置は、ファクトリーでオーナーに合わせて調整されます。そして前述の通り、ドライバーの左右の少し後方にパッセンジャーシートが2席備わります。
ボディはカーボンコンポジット材によるモノコック構造ですが、近年のスポーツカーに見られる単純なバスタブ型ではなく、40点以上のパーツを接着剤で貼り合わせた非常に複雑な形状をしています。金属の使用を徹底的に排除した結果、モノコックボディ単品の重さはわずか180kgに抑えられました。
このモノコックの後端に、4つのジョイントで剛結されているのが、BMWモータースポーツ社製の6064ccV型12気筒DOHCエンジンです。ゴードン・マレーはホンダにエンジン開発を打診していましたが、赤字を抱えていたホンダはそれに応えることができず、かつて在籍したブラバムのつてをたどって、BMWモータースポーツ社が手がけることになりました。
その直後には、ワイズマン製の6速マニュアルミッションが横置きで搭載されています。マクラーレン・F1以前の市販車ではほぼ見られない、エンジンそのものに応力を持たせるレーシングカーさながらの構造となっており、軽量化と整備性を両立させることに成功。エンジンにはフライホイールが備わらず、クラッチも小径のカーボン製となっていることから、6リッター強のV12とは到底信じられないほどの鋭いエンジンレスポンスを実現しています。
自然吸気エンジンへのこだわり
また、F1の登場当時も、そして現在も、ターボは高出力を得るための常套手段ですが、ゴードン・マレーは「ターボでは自然なフィーリングと柔軟なトルク特性が得られない」として、自然吸気エンジンにこだわりました。
1気筒あたり500cc以上の排気量を確保し、低回転からの図太いトルクを確保しつつ、徹底的にフリクションを低減することで、高回転までの軽快な吹け上がりを実現。エンジン型式「S70/2」と呼ばれる、リッターあたり100psを超えるこの超弩級V12エンジンは、自然吸気エンジンの最高傑作のひとつとして、歴史にその名を刻んでいます。
6リッター強のV12をミッドシップしたため、ホイールベースは2,718mmとかなり長くなりました。このホイールベース内にトランクスペースや燃料タンクなどを配置し、重量物をできるだけ車体中心に集め、オーバーハングは極力切り落としています。フロントの左右にはラジエターを配置して、気流はフロントホイール内を通過した後、ドアサイドから斜め上方に放熱・排気するようにレイアウトされました。
マクラーレン・F1には、ウイングなどの目立つ空力デバイスは装着されていませんが、内部には車体下面に流れ込んだ空気を吸い出すファンを装備。また、速度とブレーキングに対応してせり上がる小型のリアスポイラーも備わります。車体の上部には高圧空気をエンジンに送り込む小型のエアインテークが備わるなど、空力についても細部に至るまで徹底的に煮詰められました。
こうしてマクラーレン・F1は、全長4,287mm、全幅1,820mm、全高1,140mmというごく小さなボディに、単体重量が266kgにも達する長大な6リッターV12エンジンと3人の居住空間を詰め込みながら、車両重量はわずか1,138kgに抑えるという、驚愕のパッケージングを実現しています。
1.79kg/psという驚異的なパワーウェイトレシオが生む圧倒的な動力性能は挙げればキリがありませんが、厳選してお伝えしましょう。0〜200km/h加速はわずか9.4秒、0〜200mph(322km/h)加速はたったの28秒しかかからないのです。
スーパーカーの「分水嶺」
1台生産するのに費やされる時間は3ヶ月、約1億円で販売されるも「作れば作るほど赤字になる」と言われるほどのコストがかけられたマクラーレン・F1は、販売面で成功したは言えず、ロードバージョンとして生産されたのはわずか64台のみでした。プロトタイプやレース仕様車を全て合わせても、106台しか生産されていません。
マクレーレン・F1は、非常に高額な車両価格や、圧倒的な動力性能にばかり目を奪われてしまうものの、クルマの成り立ちとしては非常にシンプルに「スポーツカーである」と断言してよいでしょう。あるジャーナリストはマクラーレン・F1を「600psのロータス・エリーゼ」と評しましたが、あながち間違いとは言えません。
マクラーレン・F1が取り入れた、カーボンコンポジット材の大胆な使用や、スーパーカーであっても十分な快適性を確保するというコンセプトは、後のクルマに大きな影響を与えました。
一方で、パワーアシストもABSもないブレーキや、Hパターンのマニュアルミッション、パワーアシストがない重たいステアリング、そして巨大な自然吸気V12エンジンは、F1以前の古典的なスポーツカーを総括するかのごとく、ドライビングプレジャーやフィーリングを重視して採用され、そしてF1以降、こうした「アナログなスーパーカー」はほとんど登場しなくなりました。
マクラーレン・F1は、現在につながる快適で洗練されたスーパーカーと、それ以前の古典的で荒々しく乗り手を選ぶスーパーカー(例えばランボルギーニ・ミウラやフェラーリ・F40のような)、その2つの時代の「分水嶺」となったのです。
ゴードン・マレーが思い描いた通り、登場から10年後、20年後を経た今でも「史上最高の自動車」として評価されるマクラーレン・F1。ゴードン・マレーは2019年6月、自身の会社「ゴードン・マレー・オートモーティブ」から発売する新型スーパーカー「T.50」を発表しましたが、「T.50」がマクラーレン・F1のコンセプトを引き継いでいるのは誰が見ても明らかです。マクラーレン・F1は、世界で最も偉大なクルマの1台として、これからも長く人々の心に刻まれていくことでしょう。
[ライター/守屋健]